エイブラハム・リンカーン(1809〜1865)と聖書
「ゲティスバーグ演説」
エイブラハム・リンカーンは、第16代大統領で、南北戦争に勝利し、奴隷解放を行なった人物として知られています。また彼は1863年の11月に北部が南部に勝利した激戦の地であるペンシルヴァニア州のゲティスバークでの演説において、戦死した犠牲者の死を悼み、彼らの死を無駄にしないためにも、彼らの志を受け継いで、「人民の人民による人民のための政治」(Govenment of the people ,by the people,for the people)という民主主義の精神がこの地上から滅びることがないように訴えたことでもよく知られています。このアメリカの民主主義の精神が、前トランプ大統領に見られる右派ポピュリズムによって、危機にさらされている現状を、リンカーンが生きていたら大いに憂えたことでしょう。
「リンカーンの苦難の人生」
ところでリンカーンはどのような生涯を送ったのでしょうか。ジョン・クウアン著『ホワイトハウスを祈りの家にした大統領リンカーン』(小牧者出版、2010年)と鈴木有郷著『アブラハム・リンカンの生涯と信仰」(教文館、1985年))に依拠して、紹介したいと思います。
リンカーンは、1809年にケンタッキー州のロック・スプリングで大工トマス・リンカーンと妻ナンシーの第二子として生まれますが、7歳の時に両親の農場が破産し、9歳の時に母ナンシーが栄養不良と過労のため、34 歳でなくなります。彼は、小学校を中退して、その後、学校教育を受けることはありませんでした。また19歳の時に、母の代わりにリンカーンの面倒を見てくれた姉のサラが死産のため急逝します。また彼は1842年11月にメアリー・トッドと結婚し、二人の息子の死を経験しています。長男のロバートは長生きしましたが、次男のエドワードは、1850年4歳で、三男のウイリアムは1862年12歳で死去しています。妻メアリーも二人の息子の死によって精神に異常をきたしたと言われています。
彼は、1837年28歳の時に弁護士試験に合格し、イリノイ州のスプリングフィールドで法律事務所を開き、弁護士としての仕事を開始します。更に1846年37歳で、アメリカの下院議員に当選しますが、その後、1855年と1858年の上議院選挙で二度ほど落選しています。しかし1860年にリンカーンは共和党から大統領選挙に出馬し、奇跡的に当選し、第16代大統領に就任します。
1980年2月にウォールストリート・ジャーナル に、以下のような広告が掲載されました。
「もしあなたが挫折感にとらわれているなら、こんな男のことを考えてみてほしい。彼は、小学校に9カ月しか通えなかった。彼は雑貨店を経営したが倒産し、借金を返すために、17年の月日を費やした。彼は州議会選挙に落選し、上議員選挙にも落選し、副大統領選挙にも落選した。彼は、自分の名前をいつもA・リンカーンと署名した。」(クウアン)
このように、リンカーンの人生は、苦難の連続でした。大統領に当選したのちも、南北戦争や奴隷解放の問題で保守派と急進派の双方から厳しく批判され続けました。その批判の中には、彼は小学校教育もほとんど受けておらず、顔もゴリラのようであると中傷するような人格攻撃も含まれていました。
「リンカーンと聖書」
リンカーンのこの苦難の人生を支えたのが、聖書でした。リンカーンと聖書について考えるとき、母ナンシーの存在を忘れることができません。旧約聖書に登場するユダヤ人の族長アブラハムにちなんで命名したのも母ナンシーでした。ナンシーは、朝早く起きて、聖書を読み、祈りをを欠かさなかったと言われています。彼女は、リンカーンに「私はお前に百エーカー(12万2000坪)の農場を残すよりも、この一冊の聖書をあげることができて心からうれしく思います」と言って、聖書を読むことの大事さを教えました。リンカーンは、友人に母の信仰からの影響について次のように述べています。
「私が まだ幼く、文字も読めない頃から、母は毎日聖書を読んでくれ、いつも私のために祈ってくれた。丸太小屋で読んだ聖書のみことばと祈りの声が、今でも私の
心に響いている。私の今日、私の希望、私のすべてのものは、天使のような私の母から受け継いだものだ。」(クウアン)
彼は、1861年の大統領就任演説で、「この古い聖書は、母から私に受け継がれた聖書です。私は、この聖書によって大統領となり、この場所に立つことができました。私は聖書のみことばによってこの国を治めること約束します。」と述べています。オバマ、トランプ、そしてバイデンも大統領就任の宣誓において、このリンカーンの聖書を使用しています。
リンカーンが聖書について語った言葉、「聖書は神が人間に賜った最も素晴らしい贈り物である。人間の幸福にとって望ましいものは、すべて聖書の中に含まれています。」は有名です。この言葉は、解放された黒人奴隷たちが、リンカーンに革の聖書に金箔を施した高価な聖書(その表表紙に黒人奴隷の足枷を解くリンカーンの姿が刻まれている)を送った時に、リンカーンが語ったと言われています。
「リンカーンの使命ー米国の統一と奴隷解放」
リンカーンが大統領に1961年3月に就任した時に、既にミシシッピ州、フロリダ州、アラバマ州、ジョージア州、そしてルイジアナ州の奴隷制を支持する南部諸州が中央政府からの分離を表明していました。彼の大統領の第一の課題は、再び統合を成し遂げ、連邦を再建することでした。しかし同時に、彼の最も重要な政策として奴隷解放がありました。奴隷解放を放棄して、連邦を維持する選択肢はリンカーンにありませんでした。彼は、奴隷制度がいかに神の意思と反しているかを、1854年10月12日の演説において、次のように述べています。
「奴隷制度は、正義と愛に反する人間の利己心に基付いています。——— 80年余り前、この国は神の下ですべての人間は平等に創造されたと宣言したことによって始まりました。しかし何人かの利己的な人たちが、他の人を奴隷とすることが『自由の権利』だと主張し、われわれの根本の精神を衰退させました。しかし確かな事実は、この二種類の異なった考えが共存することはできないということです。これは神とマンモン(金銭)の神とが共存することができないように、互いに衝突するしかないのです。」(クウアン)
また彼は、 1858年の演説で、「この国が半分は奴隷、半分は自由人という状態で持続していくことはできない」として、奴隷解放でアメリカ国民が団結するように訴えています。彼はマルコの福音書から引用して、「もし家が内側から分かれ争うなら、その家は立ちゆかないであろう」(3:25)と述べています。リンカーンは、大統領に当選してからの1862年の日記に、「私は、奴隷を解放すると神に約束した。」と書き記しています。そして彼は、1963年1月に奴隷解放の大統領令を出します。
「南北戦争におけるリンカーンの祈り」
リンカーンは、連邦の再統一と奴隷制の廃止という一見相矛盾する政策遂行の中で、奴隷制度維持を求める南部諸州との間で南北戦争を余儀なくされます。南北戦争が勃発しようとしていた時に、共にリンカーンの下に集まっていた幕僚の一人が、「もうこうなったからには、戦いは避けられない。 最も重大なことは、神が我らの側にいますことだ」というと、リンカーンは「それより、もっと根本問題があるのではないか」と言い、「それは我々がまず神の側に立つことだ」と反論しています。ここに神を畏れるリンカーンの信仰がありました。
リンカーンは南北戦争の苦難の中で、聖書の言葉に励まされました。彼は、「私は南北戦争で国の苦難が続いている間、詩篇34篇6節の御言葉を暗唱し、これを通して力を得ることができました。『この悩むものが呼ばわった時、主は聞かれた。こうして、彼らはすべての苦しみから救われた』というみ言葉によって励まされた」と述べています。
リンカーンは、聖書に親しむと同時に祈りの人でした。南北戦争の初期の頃は北軍の敗戦の連続でした。南部軍には、ロバート・リー将軍という名将がいましたが、北軍の指揮官の無能ぶりは歴然としていました。アブラハムは、大統領の執務室で祈らざるを得ませんでした。聞こえてくるリンカーンの祈りです。
「愛する神さま! 私はたりないしもべです。私の力では成すことはできません。新しい力を与えて下さい。勇気を失わないように助けて下さい。最後まで神様と共に歩めるように私をお守りください。この民族を哀れみ、一日も早く戦争が終わり、統一した国を作ることができるように助けてください。戦争で死んでいく若者たちをお守りくだだい。」(クウアン)
またこの頃、上述したように、リンカーンが可愛がっていた息子のウイリーが肺炎で急死しています。妻のメアリー・トッドは、精神に異常をきたし、自分の部屋から一歩も出ようとしませんでした。鈴木は『アブラハム・リンカンの生涯と信仰』において、「1862年という年は、リンカン個人にとっても、またアメリカ合衆国にとっても、重要な意味を持つと言わざるを得ない。国家的悲惨と個人的絶望の真只中で、リンカンは、歴史と生を根底から支える超越的な力との人格的出会いを体験したのであり、そのことによってこの困難な状況を乗り切ることができたのである。」と述べています。リンカーンの信仰は、彼が、1863年11月に語ったことばに余すところなく示されています。
「私は、若い頃から全能の神の直接的助けなくして、人間はいかなることをも成し遂げることはできないという確信を抱いてきました。私自身のことを思う時、もっと敬虔な人間であるべきであったという思いにとらわれるのであります。しかし、そのような私も、政府が直面しているこの未曾有な困難に際して、万事窮したと思う時、すべてを神の御旨にまかせようと思うのであります。それは、すべてが神のよみし給うように必ずなると信じるからに他なりません。」(鈴木)
「リンカーンの暗殺」
南北戦争で北軍が最終的に勝利したのは、1865年4月9日でした。4月14日の午後、リンカーン大統領夫妻はフォード劇場で「われらのアメリカのいとこ」という喜劇を観劇していた時に、暗殺され、56歳で死去します。ロバート・リー将軍率いる南部連合が降伏してから6日後のことです。暗殺される前に、リンカーンは妻のメアリー・トッドに次のように語っていたそうです。
「大統領の任期が終わったら、ヨーロッパ旅行を一度して、次に祝福の地カナンの聖地旅行をしてみたいな。特にエルサレムの地を踏んでみたい。そこは、イエス様
の息づかいが感じられ、主の足跡がある所だから。主が直接私たちの罪の重荷を背負ってくださり、苦しみの十字架にかけられたゴルゴダの丘、聖なるエルレ、ム—–。」(クウアン)
リンカーンは暗殺され、エルサレムには行けませんでしたが、使命を成し終え、天のエルサレムでイエス・キリストに迎えられたことでしょう。彼はいつも自分のことを「神の摂理の貧しい器」と見なしていました。
「リンカーンの遺産」
アメリカの第26代大統領のセオドア・ルーズベルト(1858〜1919)は、リンカーンについて、「リンカーン大統領は、聖書で作られた人だ。彼は聖書の中から学んだ真理を、自分の生活にてきようし、自分の一生をこの上なく栄光ある人生にした。彼は聖書とともに呼吸し、聖書とともに生きた偉大な神の人である。」と述べています。
私たちは、リンカーンから何を学ぶことができるでしょうか。苦難の連続であったとしても、そのことに、打ち負かされず、絶えず、聖書のことばに励まされ、挫折から立ち上がったこと、また祈りによって神の導きを求め、「神の摂理の貧しい器」として、神に与えられた生涯を大切にし、死に至るまで使命を全うしたことではないでしょうか。
分断され、民主主義の精神が内側から脅かされている今日のアメリカにおいて、分断を統一へ、差別を平等や公正へと聖書の精神によって導いたリンカーンの遺産こそ、心に刻むものでなければなりません。「リンカーンに帰ろう❗️」
参考文献
ジョン・クウアン『ホワイトハウスを祈りの家にした大統領リンカーン』(小牧者出版、2010年)
鈴木有郷「アブラハム・リンカンの生涯と信仰」(教文館、1985年)
『リンカーン演説集』(岩波文庫、1957年)