藤林益三(1907-2007)と聖書

―最高裁判所長官として―

藤林益三は、内村鑑三の弟子の塚本虎二(1885-1973)の信仰の薫陶を受けたクリスチャンです。彼は、約40年間ほど企業法務の弁護士をした後、1970年7月に最高裁判所の判事に就任します。1976年5月には最高裁判所長官に当時の三木武夫首相によって任命され、1年3ケ月間長官を務め、1978年8月に定年退官しています。彼は、最初の弁護士出身の最高裁長官であると同時にクリスチャンの長官でもありました。

「藤林益三と聖書」

藤林は、京都の旧制第三高等学校在学中に新京極の松竹座で映画『十戒』を見て、感動し、そのストーリーが聖書に書いてあるのを知り、早速文語訳の新約聖書を買い求めます。しかしモーセの出エジプトやシナイ山の「十戒」の記事は旧約聖書にあることを知り、次に旧約聖書を買って読みます。また英国の欽定訳新約聖書も買い求め、日本語の聖書と対照しながら、一日1章づつ読み始め、261日で読破しています。その後、人生問題に悩むようになり、京都でキリスト教団体である救世軍の山室軍平(1872-1940)の講演を聞いたり、福音を平易に説いた彼の著作『平民の福音』を読んだりします。その後、1934年に結婚をした奥様が通っていた無教会の塚本虎二の聖書集会に行くようになり、そこで十字架と復活の信仰を持つようになります。結婚してからは、夫人のきの江さんと一緒に旧新約あわせて1189章を1章づつ読むことを日課とします。

「最高裁長官」

藤林は、1976年5月25日の最高裁長官に就任しますが、そのことを「神の導き」と表現しています。弁護士出身の自分が最高裁の長官になるとは考えられないという驚きがあったのです。就任の記者会見の席上、彼は記者の前で、アガペーの愛で職務を全うしていきたいと語っています。名著『エロスとアガペー』を書いたスエーデンの神学者ニーグレン(1890-1978)によれば、新約聖書に頻繁に出てくるアガペー(άγάπη)というギリシャ語は、条件つきの自己中心的な人間の愛と異なり、イエス・キリストの十字架の愛に象徴される無条件の犠牲の愛を意味します。彼は、長官室で祈り、聖書を読むことを日課としていました。人の生涯を決定するような重要な判決に際して、彼は神に祈り、導きを求めざるをえませんでした。彼は、退官の当日最高裁の職員200名を前にして、次のように挨拶しています。

「私は、聖書のゼカリヤ書十四章「夕暮れの頃に明るくなるべし」という言葉が好きである。ゲーテは死の床で「もっと光を」と言ったという話であるが、私はむしろ明る過ぎるくらいだ。神の愛と恵みと人の愛に囲まれて、人生の夕暮れに幸せをかみしめている。」(『私の履歴書』、87-88頁)

「最高裁時代の難題」

とはいえ、彼は、最高裁の判事と長官時代の7年間、むずかしい課題に直面し、苦闘しました。その主なものは二つです。その一つは、彼が裁判官として下した死刑判決です。藤林が、最高裁判事の約6年間の中で、最も苦しんだのは死刑判決を出す時でした。彼は、息子に「今日は、死刑判決を初めて出した。気持ちのいいものではない」と語っています。また死刑囚に匿名でお金や本を差し入れもしました。死刑囚の遺書を読み、「どうしてこれだけの資質ある人間が、大それたことを犯したのであろう」と嘆いてもいます。

藤林の『日記―最高裁の時代』(藤林益三著作集②)には、1976年4月1日の日記に、「今日は気の重い日であった。昨年来審理していた保険金目当ての青酸化合物による毒殺事件について、判決を宣告した。一、二審とも死刑であった。上告棄却はなるべく急ぎたくない気持ちになるが、そうは言ってもおられない。裁判長として死刑を確定させたのは、これが三度目である。」とあります。また1977年5月23日の日記には、「1971年に私が上告を廃棄して死刑に確定した人が、一昨日東京拘置所で自殺したということを、今日の新聞で知った。窓ガラスを破って、その破片で頸動脈を切ったようであるが、あわれである。」(『日記―最高裁の時代』,211頁)と書いています。死刑判決を下すことは、被告の命を奪うことを意味するので、藤林としては、判決を下す前に神に真剣に祈り、神の導きを求めたことでしょう。

しかし、藤林にとって嬉しい事もありました。それは、藤林が上告廃棄して死刑の確定した死刑囚のW(横須賀線電車内での爆発事件を起こした犯人)が、刑務所内で悔い改め、イエス・キリストを信じたことでした。たとえ処刑されなければならないとしても、信仰によって「永遠の命」を得ることができたことは、藤林にとって喜びでした。

「津地鎮祭訴訟」

もう一つの事例は、彼が大法廷の裁判長として判決を言い渡した津地鎮祭訴訟です。これは、1965年1月に市立体育館の起工式を、市が神主を呼んで、神道式で行い、その費用を公金で支出したことが、政教分離違反として問われた有名な事件です。この訴訟は地裁で合憲、名古屋高裁で違憲が下され、最高裁に持ち込まれました。最高裁では、起工式は、慣習であって、宗教的行為ではないとして、10対5で合憲とされましたが、藤林は「少数者の宗教や良心の自由に対する侵犯は許されない」とする反対の意見書を独自で提出しています。この少数者の立場から政教分離を徹底していこうとする藤林の立場には、戦前の治安維持法によるキリスト者迫害の経験が影響しています。藤林自身、無教会のクリスチャン浅見仙作(1868-1952)がキリストの再臨を説いたことによって、国体の尊厳を冒瀆したとして、治安維持法違反で逮捕された時に、浅見の裁判闘争を助け、無罪となるように尽力しています。津地鎮祭の時の少数意見は、公権力に対して良心の自由、信教の自由を守ろうとする藤林の信念の表現であり、裁判長が判決に反対する異例の事例でした。

「藤林の苦難」

しかし、藤林の最大の苦難は、裁判官を辞めた後に到来します。夫人の慢性関節リウマチが悪化し、1982年頃より、手術のために入退院を繰り返し、激しい苦痛によって身体が衰弱し、1988年6月28日に夫人は急性心不全により享年74歳で天に召されます。結婚以来50有余年、同じキリストを信じる者同士として固い信頼の絆にむすばれた夫人の死は、藤林にとって大打撃でした。この頃藤林は、聖書のヨブ記を読み、19章の言葉に慰めを見出します。

「私は知っている。私を贖う方は生きておられ、ついには土のちりの上に立たれることを。私の皮がこのように剝ぎ取られた後に、私は私の肉から神を見る。この方を私は自分自身で見る。私自身の目がこの方を見る。ほかの者ではない。私の思いは胸の中で絶え入るばかりだ。」(ヨブ記19章25-27)

藤林は、「私を贖う方」つまりイエス・キリストの再臨と信者の復活をそこに読み取り、「今日キリスト者の中に再臨、復活の信仰を喜び受くる者多きは、それが我本来の要求に合致するもの」であり、「魂の中におのずと湧きいづるものにして」、同時に神の啓示であると述べています。

藤林は、夫人の晩年の苦難を忍びつつも、「その生涯を通じて、故人を支えたものは、イエス・キリストによる神への信仰であり」、「故人の生涯は、神への感謝と祈りに満たされていた。」(『私の履歴書』、157頁)と述懐しています。

「参考文献」

「惜別―元最高裁長官・藤林益三さん 信仰が支えた法律家人生」(朝日新聞、夕刊、2007年6月1日)

『藤林益三著作集』(東京布井出版)の二巻『日記―最高裁の時代』(1984年)と八巻の『私の履歴書』(1989年)