淵田美津雄 (1902〜1976)ー軍人から伝道者に

2016年8月15日にNHKスペシャルで「二人の贖罪ー日本とアメリカ・憎しみを超えて〜」が放映され、ジェイコブ・ディシェイザーと淵田美津雄の生涯の記録が放映されました。また2007年には『真珠湾攻撃総隊長の回想ーー淵田美津雄自叙伝』が出版されています。ここではこれら二つの記録を典拠に淵田美津雄の回心を、ジェイコブ・ディシェイザーとの関連で紹介することにします。

「真珠湾攻撃」

1941年、12月8日、日本海軍は奇襲作戦として真珠湾攻撃を行います。海軍中佐淵田美津雄は、6隻の空母から発した戦闘機や爆撃機など350機を陣頭指揮し、米太平洋艦隊に大打撃を与えます。アメリカの戦艦4隻が沈没し、300名の命が奪われます。暗号電報「トラトラトラ」(ワレ奇襲に成功セリ)は有名で、映画の題名にもなりましたが、この電報を発したのが、淵田美津雄です。
この淵田美津雄が、戦後、日本で布教活動を行なっていたジェイコブ・ディシェイザーの小雑誌「私は日本の捕虜だった」を読んで、クリスチャンになります。人生の大転換です。どうしてこの様な変化が彼の中で生じたのでしょうか。まずは、ジェイコブ・ディシェイザー(1912〜2008)について紹介します。

「ジェイコブ・ティシェイザーの回心」

真珠湾攻撃の報を受けて、日本に対して復讐心を抱いていたディシェイザーは、「日本人を皆殺しにしてやる」という思いを抱いて、名古屋を攻撃する戦闘機に乗り込み、名古屋に焼夷弾を300発を落とします。しかし、燃料切れで中国の日本の占領地域に不時着して日本軍の捕虜となり、虐待を受け、日本と日本人に対する憎しみと憎悪を一層募らせます。上海で軍法会議が開かれ、日本を空襲した8名の捕虜全員が死刑判決を受けますが、その内3人が実際に処刑され、後のディシェイザーを含む五人が無期監禁に減刑され、九死に一生を得ます。彼は「日本人と名のつく奴、全部地球上から消えてなくなりやがれ」と呪いの言葉を発します。そのような時に、不思議なことに聖書を読んで見たいという強い渇きが起き、看守の一人に繰り返し聖書を要求した結果、1944年5月英語の聖書の差し入れを受けます。彼は、聖書を熱心に読み始め、イエスの十字架上の祈り、「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分がなにをしているのかがわかっていないのです。」(ルカの福音書23:34)に衝撃を受けます。そして彼は1944年6月8日に、「もし、あなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心でイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるからです」(ローマ書10:9)を読み、イエスを信じ、救われ、憎しみの呪縛から解放され、全く新しい人に造りかえられます。
そして彼は戦後、牧師となり、1948年に今度は爆弾ではなく、聖書を抱いて日本に宣教師としてわたり、日本人にキリストの福音を伝えるのです。そしてなんと自分が爆撃した名古屋の街に、教会を建てます。彼は、「無知は無理解を生み、無理解は憎悪を生む。そして憎悪こそは、人類相互の悲劇を生む。無知から生まれる、憎しみの連鎖を断たねばならぬ。これこそ、『ノーモア・パール・ハーバー』への道である」と語っています。彼にとって憎しみの連鎖を解く秘訣は、イエス・キリストでした。

「淵田美津雄の回心」

淵田は、真珠湾攻撃後も「一人でも多くのアメリカ兵を殺してやる。皆殺しにしてやる」という憎しみをアメリカ人に抱いていました。しかし戦後の1949年12月3日東京の渋谷で、イエスを信じて憎しみを断ち切ったことを証したディシェイザーの小雑誌「私は日本の捕虜であった」を一人のアメリカ人から渡され、それを読んで、感動します。それから彼は、聖書をむさぼり読む様になり、やはりディシェイザーと同様に、ルカの福音書23:34節のイエスの十字架のとりなしの祈りに心を揺り動かされます。彼は、最初、イエスの祈りはユダヤ人やローマ人に対する執り成しと思っていましたが、「彼らを御赦しくださいという彼らの中に、お前も含まれているのだ」という上からの啓示を受け、悔い改めに導かれます。彼は自分の心の変化を次の様に述べています。

「神を知らないで、47年間も神に背を向けていた私などは、まさしく罪人であった。—–イエス・キリストが十字架で血を流して、『父よ、彼らをお赦しください』と、とりなしの祈りをしてくださったのは、この罪のあがないのためであった。これが十字架の贖罪であり、罪の赦しである。私は、47年間も『何をしているか分からずにいた」という自分の罪を自覚した。そしてはっきりと、イエス・キリストが私の罪のために死んでくださったのだということを知った。」

淵田は罪について、神から離れている、神に背を向けていることが単数形の罪、つまり,「ザ・シン」(the sin)で、そこから「シンズ」(sins)いう諸々の罪が派生してくると述べています。そこで、彼は神を知らなかた自らの生涯を悔い改めて、イエス・キリストを信じて、神に立ち返ったのです。
そして淵田は、ディシェイザーの回心手記の余白に、「私は、ただいま、神の独り子にいますイエス・キリストを私自身の救い主として受け入れます。この契約の日付け、1950年(昭和25年)2月26日)」と書き付けています。彼は、この時47歳でしたが、まさに第二の誕生日を経験したのです。
彼の愛用している聖書の表紙の裏には、文語訳聖書の「父よ、彼らを赦したまえ、その為すところを知らざればなり」と英語聖書の「Father,forgive them,for they know not what they do.」が刻まれています。
淵田は、過去を振り返り、1945年8月6日に広島に原爆が投下される前日に広島から大和基地に移動していたことを想起し、「何という幸運であっただろうか。—–私はこの時、厳粛に神を仰いでいた。これは神の摂理で生かされたのだと。これが私のイエス・キリストへの信仰の始まりであった。」と述懐しています。

「淵田美津雄の米国伝道」

淵田は、クリスチャンになってから、1952年から1967年まで八度訪米し、15年近くを全米各地を飛び回り、多くの教会でキリストの福音を伝えました。またビリー・グラハムの伝道集会で救われた証をしています。彼は、またトルーマン前大統領、アイゼンハワー大統領、そして占領軍最高司令官であったマッカーサー、そして米国の太平洋艦隊司令官であったチェスター・ニミッツを訪ねています。ミニッツは、1945年9月2日、戦艦「ミズーリ」で行われた日本の降伏調印式で合衆国代表として調印した人物です。淵田と彼ら米国の要人との会談は、もはや友・敵との関係ではなく、同じキリストにある者としての交わりでした。
彼は自らが攻撃した真珠湾にも三度訪れています。彼は、真珠湾攻撃の生き残りの負傷者や犠牲者の遺族と会い、謝罪をしています。総じて淵田の米国での伝道活動は、イエス・キリストの福音を伝えると同時に、憎しみの連鎖を打ち破り、敵意を相互信頼と愛に変えるためのものでした。彼は時にはディシェイザーと一緒に福音を伝えています。以前であれば、考えられないことでした。また淵田は、米国伝道と並行して日本でも精力的に伝道活動を行い、1976年5月30日に享年73歳で天に召されました。彼は、1921年19歳の時に海軍兵学校に入校していますので、彼の人生の1/3は軍人としての戦いの生涯でしたが、後半の最後の1/3は、キリストのための生涯であり、憎しみを赦しと愛に変える生涯でした。

「憎しみの連鎖を打ち破る」

現在、日本や世界では家庭の崩壊、社会の分断、戦争があり、その原因に憎しみの連鎖があります。この連鎖を打ち破り、愛と理解の関係に作り変えることができるのは、ディシェイザーや淵田が経験したように、また多くのクリスチャンが経験しているように、イエス・キリストだけです。イエス・キリストを救い主として信じ、心の中に受け入れる時に、大きな変化が生まれてきます。
「ですから、誰でもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは、過ぎ去って、見よ、すべてがあたらしくなりました。」(2コリント5:17)

参考文献
NHK スペシャル「二人の贖罪」
『真珠湾攻撃総隊長の回想ー淵田美津雄自叙伝」(講談社、2007年)

淵田美津雄とジェイコブ・ディシェイザーの伝道旅行の時の写真(1952、2、1)

淵田美津雄とジェイコブ・ディシェイザー

淵田美津雄とジェイコブ・ディシェイザーの伝道旅行の時の写真(1952、2、1)