ドストエフスキーと聖書ー『悪霊』

『悪霊』

『悪霊』(1872年)は、『罪と罰』(1866年)と『カラマーゾフの兄弟』(1879年)の中間に位置する長編小説です。この小説執筆のきっかけは、「ネチャーエフ事件」 にあります。当時モスクワ大学の学生であったネチャーエフは、スイスにいた革命家ゲルツェンやバクーニンと関係を持っていた熱烈な革命家で、革命を行うために、五人組を組織します。このうちの一人であるイワノフが革命を裏切ったことで、1869年にモスクワ大学でネチャーエフと彼の仲間によってイワノフが殺害される事件が発生し、ロシア社会に深刻な衝撃を与えます。『悪霊』には、ネチャーエフに模したピョートル、イワノフに模したシャートフが登場しますが、『悪霊』の主人公は、ピヨートルにもシャートフにも圧倒的な影響力を持つスタヴローキンなのです。

「冒頭の聖書のことば」

ドストエフスキーの著作を読み解く鍵は、彼が著作の冒頭に掲げる聖書の引用にあります。『カラマーゾフの兄弟』の場合には、「一粒の麦は、地に落ちてしななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」(ヨハネの福音書12:24)というイエスの十字架の死を預言する聖句が冒頭に置かれています。
『悪霊』の冒頭には、ルカの福音書、第8章32〜36節の聖句が引用されています。イエスが悪霊に憑かれている人から悪霊を追い出した結果、その悪霊がぶたにはいり、豚の群れが全滅した箇所です。ドストエフスキーの『悪霊』において、悪霊に憑かれているのは、主人公のスタヴローギンです。ドストエフスキーは、スタヴローキンの母親のワルワーラ夫人の養女のダーリヤに、スターヴローギンに対して、「神様があなたを悪魔からお救いくださいますように、そして呼んで下さい、すこしでも早く私を呼んでください!」(上、562)と叫ばせています。そして、悪霊に憑かれたスタヴローキンは、彼を神のように敬う人々にとりつき、彼らを虚無主義や超人思想、革命思想に駆り立るのです。
ちなみに「悪霊」(demon)は、聖書では「悪魔」(devil,Satan)の手下とされています。

「スターヴローキンという人物」

『悪霊』の主人公スタヴローキンは、その他の一切の登場人物を飲み込んでしまう様なブラックホールです。彼は、大学を卒業して軍務に服して後、放蕩に身を持ち崩し、複数の女性と関係します。また人間を人間と思ない彼の性格の故に、二度にわたる決闘事件を起こします。きわめつけの事件は、彼がペテルブルクにいた時に、密通していた小間使いの娘マトリョーシャを陵辱し、マトリョーシャが納屋で首をくくったことでした。彼女は、死ぬ前に「わたしは神様を殺してしまった」とうわごとで叫んでいました。スターヴローキンは、放蕩に身を持ち崩し、善悪を超越して行動する反面、仮面の様な美しい顔と冷静沈着な行動のゆえに多くの人々を魅了するのです。

「スターヴローキンに取り憑かれる人々」

革命家として振る舞うピョートル、人神を主張するキリーロフ、そしてロシア国民を神とするスラブ主義者のシャートフもすべてスターブローキンの分身です。シャートフは、スターブローキンに対して、「あなたは僕の心に神と祖国を植え付けたとちょうど同じ時期に—–あの偏執狂のキリローフの心に毒を盛っていた。—–今の彼を見てごらんなさい、あれはあなたの創造物なんですよ——」(2-7-474)と述べています。
森有正は、『ドストエフスキー覚書』の中で、スターブローキンについて、的確に以下のように評しています。
「スタヴローキンこそこの人間的な関係の中心である。ピヨトルも、キリーロフも、シャートフもこの魅力の圏内を、狂うが如くに旋回する、夏の虫である。ー無産者の独裁を企画するピョートル・ヴェルホーヴェンスキーも、自己の絶対自由を求めて人神の観念に到達したキリーロフも、ロシアの国民主義的宗教の中に真の神を見出したと思ったシャートフも、スターヴローギンの魅力を離れてはなにもなし得ないのである。』(39頁)

「キリーロフの人神思想」

ここでは、スタービローキンの影響を受けたキリーロフの人神思想に限定して考えたいと思います。ニーチェの『ツアーラストア』は、神の死を宣言して、超人の出現を説いた書ですが、まさにこの人神思想を抱いていたのが、キリーロフです。キリーロフは、神が存在しないならば、自分こそ神であると主張して、ピョートルに対して以下のように述べています。
「もし神があるとするならば、すべての意志は神のもので、ぼくはその意志から抜け出せない。もしないとすれば、すべての意志は僕のもので、ぼくは我意を主張する義務がある。」(3-6-529)
キリーロフは、「痛みと恐怖に打ち勝つものが、みずから神になる。その時新しい生が、新しい人間が、新しい一切が生まれる」(1-3-217)と主張しますが、彼にとって新しい人間とは、苦痛と恐怖に打ち勝ち、死を恐れない人間なのです。そして彼は、自分が神から自由な人間で、死をも恐れない人間であることを証明するために、自殺を決行するのです。彼にとって、自殺とは自分のいのちを決定するのは、神ではなく、自分であるという思想の結末に他なりませんでした。

「『悪霊』の結末」

『悪霊』の冒頭の聖句では、悪霊に取り憑かれた豚が全滅する様子が描かれていますが、『悪霊』の登場人物の最後も悲惨です。スターヴローキンとキリーロフは自殺し、シャートフはじめスターヴローキンの関係者5人が殺害されています。ドストエフスキーは、神に反逆し、神が定めた道徳律を破壊し、自らを神の座に置くことが、いかに悲惨な結果をもたらすかを示そうとしたのではないでしょうか。人間にいのちを与え生かしておられる神を否定することは、取りも直さず、人間を滅ぼすことなのです。

「ラスコーリニコフ、スターヴローキン、イワン」

『悪霊』の主人公スターヴローキンは、『罪と罰』におけるラスコーリニコフのニヒリズムや超人思想を受け継ぎ、『カラマーゾフの兄弟』におけるイワン・カラマーゾフの無神論を先取りしています。
聖書における悪魔そして悪霊の働きは、人にささやき、あるいは取り憑いて神に反逆させ、神の計画を打ち壊すことにあります。『罪と罰』では、悪霊に憑かれることが、疫病の感染として描かれていました。ラスコーリニコフは、シベリア奥地で感染症の夢を見ます。その悪夢の中で、感染した者たちは、「病気にかかる前には考えてもしなかった強烈な自信を持って、自分はきわめて賢く、自分の信念は絶対に正しい」と思い、何をしても赦されると考えるのです。
『カラマーゾフの兄弟』でも、悪魔にそそのかされ、民衆を奴隷化し、物質的・権力的支配を行う『大審問官』の話が紹介されています。ドストエフスキーにとって、神の存在や神の働きが現実であると同様、悪魔、悪霊の存在や働きも幻想や迷信ではなく、霊的現実でありました。彼は目に見える現実の背後にある霊的現実に絶えず目を注いでいた文豪であったのです。

「『悪霊』は絶望の書か」

『悪霊』には、『罪と罰』のソー二ヤや『カラーマーゾフの兄弟』のアリューシヤやゾシマ長老のように、神を恐れ、神を愛して、神の側に立つ人々は登場してきません。終わりも、スターヴローキン初め、関係者の自殺や殺害という悲劇的結果です。それでは、希望はないのでしょうか、悪霊や闇の支配は続くのでしょうか。そうではありません。革命家のピヨートルの父親で自由思想家であったステパンは、晩年旅に出て、神を激しく求めるようになります。そしてドストエフスキーは、キリストが悪霊を追い出された後の世界における、人間の新生と世界の復活の希望をステファンに語らせるのです。少し長くなりますが、その所を引用しておきます。ステパンは、彼の世話をしていた敬虔なソフィアに悪霊が追い出されて、豚に入ったルカの福音書の聖句を読んでもらって、次の様に述べています。
「『友よ』ステパン氏は興奮にかられて言った。『いいですか、このすばらしい異常な箇所は僕にとって生涯のつまずきの石だったのです。——それでこの箇所は子供の自分から僕の記憶に焼き付けられていました。——どうです、これはわがロシアそのままじゃありませんか。病人から出て豚に入った悪霊どもーこれは、何百年、何世紀ものあらゆる病毒、あらゆる不浄、あらゆく悪霊、小鬼どもです!そう、これこそ僕が常に愛したロシアです。しかし偉大な思想と偉大な意志は、かの悪霊に憑かれて狂った男と同様、わがロシアをも覆い包むでしょう。するとそれらの悪霊や不浄や、上つらの膿みただれた汚らわしいものは、自分から豚の中に入れてくれと懇願する様になるのです。ーいや、もうはいってしまったのかもしれません!それがわれわれです。—-けれど、病人は癒えて、『イエスの足下にすわる。——そして皆が驚いて彼を見つめるのです。——愛する友よ、あなたにもいずれわかりますよ。今、僕はわくわくしている。」(3-2-598〜599)
ドストエフスキーは、悪霊が入り、溺れてしまった豚ではなく、悪霊を追い出されて新たにされた人に新たな時代の始まりを見ていたのです。悪霊、そして悪魔でさえもキリストに勝利することはできません。またキリーロフのように、自分の力で死に勝利することはできません。キリストが十字架と復活によって死と悪魔に勝利されたのです。

“死は勝利に飲み込まれた。
“死よ,お前の勝利はどこにあるのか。
死よ、お前のとげはどこにあるのか。——
しかし、神に感謝します。神は私たちの主イエス・キリストによって、
私たちに勝利を与えてくださいました。(1コリント15;54、55、57)

参考文献
ドストエフスキー『悪霊』(上、下)(江川卓訳、新潮文庫、2021年)
引用ページを示すテキストの3-2-598は、第3 部第2章598頁を示している。
亀山郁夫『NHK100分で名著、集中講義ドストエフスキー』(NHK出版、2022年)
E・H・カー『ドストエフスキー』(松村達雄訳、筑摩書房、1969年)
森有正『ドストエフスキーの覚え書き』(筑摩書房、1979年)