山室軍平(1872〜 1940)と聖書

ー民衆に福音をー

皆さんは、山室軍平といっても、知らない人が多いのではないでしょうか。クリスチャンでも知っている人は多くはないと思います。彼は「救世軍」(Salvation Armyープロテスタントの一教派で、軍隊的組織編成をとり、小隊が教会にあたる)の日本のリーダーでした。「救世軍」でよく知られているのは、「社会鍋」です。歳末になると、軍服と帽子を被り、賛美歌を歌い、鍋を吊るして、街頭で生活に困窮した人々のために募金活動をしている光景を見たことがある人もおられると思います。それでは、山室軍平はどのような人であったのでしょうか。

「山室軍平のプロフィール」

山室軍平は、1872年(明治5年)8人兄弟の末っ子として、岡山県阿哲軍哲多町に生まれます。家は貧しかったため、1881年(明治14年)、杉本彌太郎という叔父の養子になります。杉本家は、質屋をしていました。彼は、1886年(明治19年)、24歳の時に養父母の家を無断で東京に出て、印刷工として働くようになり、その結果、養家から廃嫡され、山室姓に戻ります。

「聖書との出会い」

軍平は、15歳の時の1887年 ( 明治20年)、路傍伝道でキリスト教の印刷物をもらいます。それ以降、集会に出席したり、自ら新約聖書を購入して、 熱心に読むようになります。彼は、下宿先から活版所に通う途中、新富橋の福音教会系の築池教会に通うようになります。なんとこの教会の牧師は、真珠湾攻撃で有名な山本五十六の実兄の高野丈三郎でした。

「山室軍平の回心」

軍平は、聖書を初めて開いた時、聖書の倫理的・道徳的基準の高さに愕然とし、その基準に照らして、自分の罪を示されます。そして彼は、自分の罪のために死なれ、三日目によみがえられたイエス・キリストを信じるようになります。彼自身の言葉を引用します。

「一、ニヶ月の間集会に出席し、聖書を読んだ。こうして天の父の存在、自分の罪、キリストの救いのことがわかってきた。自分の罪を悔い改めて、キリストとその十字架を信じて罪の赦しを求め、救いの恵みを受けた。」

「専心伝道者になる」

彼は、1888年8年(明治21年) 16歳の時にバプテスマを受けます。その後、専心的に神に仕え、福音を民衆に伝えることを決意します。その時の彼の祈りを紹介します。

「神様、私は弱い、愚かな、足りないも者であります。しかしながら今、身も霊魂も、すべてあなたに差し上げますから、どうか受けいれて潔め、もしできることなら用いて、これらの職工、労働者、そのほか、一般平民の救いのために働かせたまえ。どんな無学な人でも、聞いてわかるように福音を伝え、またどんな無知な人でも、読んでわかるように真理を書き記す者とならせたまえ。キリストの御名によって願いたてまつる。」

彼はそのために、昔の心学の本、童話本、詩、歌、俳句、ことわざ、例え話をできるだけ広く集めて熟読し、あるものは書き抜いて精読し、また暗記して、それらを聖書メッセージにとりいれるように努めたそうです。

「新島襄の言葉」

軍平は、京都の同志社で開催された夏期学校開催に参加し、そこで闘病中であったにもかかわらず、熱く信仰を語る新島襄の言葉に感動します。新島は、以下のように、聴衆者に呼びかけたそうです。

「明治維新の改革は、青年の手によってなされた。そのように神の国を建設する大業も、また青年の力に待つところが最も多い。一本の薪は盛んに燃えるちからがない。けれども多数の薪が集まれば、勢い盛んに炎上する。そのとおり、諸君もまた、協力して同胞の救いのために戦わねばならない。」

軍平は、新島襄は敬愛していましたので、同志社の予備学校に入学しますが、聖書霊感説を否定する同志社の自由主義神学になじめず、悩んだ末、中退しています。

「救世軍に入隊」

軍平は、岡山県高梁での伝道 を1889年、17歳の時に開始し、また当時岡山で孤児院を開設していたクリスチャンである7歳年上の石井十次(1865〜1914)の働きを精神的・経済的に支えています。石井十次の孤児院での働きは、軍平にとっても後の社会福祉活動の原点となりました。ちなみに石井十次の生涯は、松平健主演、竹下景子、大和田伸也などが出演した「石井のお父さんありがとうー岡山孤児院・石井十次の生涯」で2004年に映画化されています。
その後、山室軍平は紆余曲折を経て、1895年ウイリアム・ブース(1829-1912)が1877年に始めた救世軍に入隊します。軍平、23歳の時です。
これ以降、軍平は救世軍の指導者として、福音宣教に邁進すると同時に、様々な慈善活動、孤児や外国人失業者の救済、公娼廃止運動、結核療養所の開設、関東大震災などの震災被災者の支援活動、禁酒運動、地域住民や児童のためのセトルメント、児童虐待防止運動、歳末の社会鍋など多方面の社会福祉事業にコミットします。救世軍の慈善活動を支えた一人が渋沢栄一であることはよく知られており、山室軍平は1931年7月に渋沢夫人から依頼されて、渋沢が死ぬ前に3度にわたって直接福音を語っています。
山室軍平にとって、信仰と社会事業は密接不可分でした。彼はキリストの十字架の福音を語ると同時に、キリストの愛に駆り立てられて、慈善活動を行いました。救世軍の社会慈善・福祉活動は、日本でも注目され、大隈重信や渋沢栄一が資金的に協力し、宮内省も1918年以降、千円の下賜金を与えています。しかし 軍平にとって慈善活動は目的そのものではなく、福音伝道が目的そのものでした。とはいえ、福音を通してキリストの愛を知れば知るほど、山室は困っている人、苦しんでいる人を支援し、彼らの人間の尊厳を回復することを目指したのです。
山室軍平の活動の原動力は彼の祈りでした。彼は、たゆみなく熱心に聖書を読んだ人です。彼は毎朝聖書をよみ、神に祈るデボーションの時を最も大事にしたと言われています。また彼は、救いを祈る人の名簿を作り、定期的に祈りましたが、その数は800名にも達したそうです。
彼は、1899年6月に同じ救世軍の隊員(クリスチャン)である佐藤機恵子と結婚します。軍平27歳、機恵子25歳の時です。同年民衆伝道を目指し、「誰にでもわかるキリスト教」として、『平民之福音』を出版しています。彼は貧困に喘ぐ民衆、病気で苦しむ人々に寄り添い、福音を伝えました。

『平民之福音』

私が持っている『平民之福音』は、1992年(平成4年)のものですが、すでに526版と版を重ねており、時代を超えて読み継がれてきたことを示しています。例えば、1969年に500版を出版していますが、約50万部も印刷されています。1915年には、司法当局により、全国の刑務所に備えるために、『平民之福音』605部の注文があったそうです。
この書物の序文に、軍平は、『平民之福音』を書くに至った動機を、「私の小さな胸の中にあるたった一つの願いは、いかにしてもこの大いなる神の御慈愛を、ことにわが敬愛する平民諸君に、お知らせ申したいということであった。」と記しています。
『平民之福音』は、第1巻 「天の父上」第2巻「人の罪悪」 第3巻 「キリストの救い」第4巻 「信仰の生涯」第5巻 「職分の道」によって構成されています。例えば第1巻の「天上の父」においては、信仰は、盲目的な「いわしの頭も信心から」や「先祖伝来の宗旨であるから」ではなくて、よく考えて信頼に値する神を求める必要があると述べています。その神とは天地創造の神であり、人間をわが子のように慈しみ、あわれむ父なる神です。そして軍平は、先祖伝来の幾多の偶像ではなく、唯一で創造主である真の神を心から礼拝することを勧めます。そして、第2巻「人の罪悪」では、罪を悔い改めて神に帰ること、第三巻の「キリストの救い」では、イエス・キリストが神の子であり、救い主であることが記されてあります。

「妻機恵子の死」

1916 年に軍平の妻であり、救世軍の忠実な兵士で同労者でもある機恵子が神に召されます。彼女は、子供達一人一人の頭を撫でながら、順番に最後の教えを語ります。そして神に祈り、仰臥したまま白紙に「神第一」の3字を書き、さらに「我が身の望みは、主の十字架にあり」と書き 、「幸福は唯十字架に側にありますと伝えてください」と夫に遺言しています。キリストの十字架の贖いこそ、機恵子の生命そのものでした。彼女は軍平が、「父よ彼女の霊を受けたまえ」と祈る中、42年の生涯を終えました。葬儀には、司式をした金森通倫 を初め、島田三郎、徳富蘇峰、石井十次、留岡幸助など錚々たる人物が参加していました。 また津田梅子や河井道の募金によって、山室機恵子記念堂が建てられ、彼女の墓の墓碑銘には「幸福はただ十字架の側にあり」ということばが記されてあります。

「民衆の聖書」

山室軍平は1921年から「民衆の聖書」のシリーズとして、『マタイ福音書』、『使徒行伝』、『ルカ伝』、『ヨハネ伝』、『ロマ書』などのわかりやすい聖書の手引書を刊行して、民衆に聖書が浸透することに尽力します。彼は、1935年の救世軍開設40年記念講演会で、「血の一滴に至るまで民衆の聖書に注ぎたい』と抱負を述べています。
山室軍平にとって内村鑑三は心の支えであり、難問題が持ち上がると内村を訪ねて、相談をしました。内村が主に知識人やインテリに福音を語り、山室軍平が民衆の中に入って福音を語り、慈善事業を展開したという違いがあるものの、二人はキリスト信仰において相互に信頼しあっていました。

「山室軍平の死」

1937年に20年間苦楽と信仰を共にした再婚の妻悦子が死去し、 山室軍平も急性肺炎にて1940年3月死去します。この時期はまさに軍国主義が猛威を振るっていた時代で、『平民之福音』も発禁処分されています。山室軍平が太平洋戦争の勃発の前に天に召されたことは、神の恩寵と言わざるをえません。
彼の多磨霊園の墓地の墓碑銘には次のように記されてあります。

「憂うる者の如くなれども常に喜び、貧しき者の如くなれども多くの人を富ませ、何も有(も)たぬ者の如くなれども、凡ての物を有(も)てり。」

これは、聖書の第2コリント6章10節からの引用であり、まさに、キリストにあって生きた山室軍平の信仰と生涯を象徴する墓碑銘です。彼はたとえすべてのものを失っても、キリストにあって全てのものを持っている者として生涯を全うしました。
最後に、山室軍平が、ある人物に送った聖書の献辞を紹介します。そこには、後世の人々に送る熱い想いがほとばしり出ています。

「神の他畏る所なく、罪の外恥じる所なく、基督とその十字架の外何事をも知らざる者百人あらば世界を動かすことを得べしと、ウエスレーは言いぬ、君がその一人たらんことを祈り止まず」

参考文献

山室軍平『平民の福音』
室田保夫『山室軍平』(ミネルヴァ書房、2020年)
三吉明『山室軍平』(吉川弘文館、1986年)
鈴木範久『聖書を読んだ30人』(日本聖書協会、2017年)