「真実の愛とは」

ークリスチャン裁判官 石丸俊彦と吉野雅邦

2022年2月12日の朝日新聞の夕刊に浅間山荘事件の公判で被告吉野雅邦に無期懲役判決を下した、当時東京地裁の裁判長石丸俊彦の記事が掲載されていました。また2月25日には、NHK の「クローズアップ現代」において、「50年目の独白ー元連合赤軍幹部の償い」と題して、吉野雅邦が獄中で書いた手記が紹介されていました。吉野が、自分の罪を認めて、償いの人生を始めたのは、裁判長である石丸俊彦との出会いがきっかけでした。以下、主に「クローズアップ現代」の記事そして、吉野の友人の大泉康夫さんの書物を通して、石丸俊彦裁判長との出会いによる吉野囚人の魂の変化について紹介します。

「吉野雅邦のプロフィール」

吉野雅邦は、1948年3月27日に東京に生まれます。父良一は、東京帝国大学法学部を卒業しますが、東大時代の同期生には中曽根康弘元首相がいました。雅彦も、当時東大合格者数第一位を誇る日比谷高校に進学した秀才でした。高校時代彼は、友人と「二葉亭四迷と北村透谷」、「小林秀雄と亀井勝一郎の大きな違い」、「太宰治の作品は本当に退廃的か」「ヘンリー・ミラーにおける性の描き方」「サルトル・カミュ論争」、「トルストイの悪への無抵抗」、「ドストエフスキーの罪と罰とは」「旧約聖書」、「禅について」などを話し合ったと言われています。人生いかに生きるべきかを考えていた真面目な学生でした。大学は横浜国立大学経済学部に入学、大学に入って学生運動に没頭し、革命左派から、その後連合赤軍派に入り、1969年から1972年に起きた一連の連合赤軍事件に関与します。当時の愛知揆一外相の訪ソ訪米に反対し、羽田空港の滑走路に火災瓶を投げつけた事件、栃木県真岡市の塚田猟銃店での猟銃強奪事件、印旛沼事件(同志2名を殺害)、山岳ベース事件(同志12名の総括・殺害)、あさま山荘事件(警官2名、民間人1名死亡)に関与しています。実に彼は17名の殺害に関与したとして、逮捕され、起訴されたのです。検察は死刑を求刑しましたが、1973年に東京地裁で下された判決は、無期懲役でした。検察は控訴しましたが、1983年、第二審の東京高裁は、検察側の控訴を棄却し、検察も最高裁への上告を断念したため、無期懲役の刑が確定し、吉野は千葉刑務所に移送されます。そして現在においても服役中です。現在、74歳です。なお同じく起訴されていた連合赤軍の森恒夫は拘置所で自殺をし、永田洋子は1982年に死刑判決が確定しますが、2011年に獄死しています。

「浅間山荘事件と山岳ベースリンチ事件」

1972年2月19〜28日に連合赤軍の5人が長野県軽井沢町の浅間山荘に立てこもり、機動隊員と銃撃戦を行いましたが、その5人の中に吉野雅邦がいました。この事件後、群馬県の山岳で連合赤軍の仲間12人が「総括」として殺害され、吉野もこの殺害に関わったことで、殺人、死体遺棄、監禁などの罪状で起訴されます。この殺害された12人の中には、吉野の子供を身ごもっていた妻の金子みちよ(享年23歳)も含まれていました。みちよは吉野が横浜国立大学の混成合唱団で知り合った同じ歳の女性で、吉野に連れ添う形で、革命運動に身を投じていたのです。

「石丸裁判長の判決文」

東京地裁でこの裁判を担当した石丸裁判長は、1979年3月の判決(事件から7年後)に際して、吉野雅邦に対する検察側の死刑の求刑に対して、無期懲役の主文を言い渡す前に、700ページに及ぶ判決文を読み上げ、最後に吉野に呼びかけています。そこには、吉野の更生を願う裁判長の熱い想いがこめられていました。

「法の名において生命を奪うようなことはしない。被告人は自らその生命を絶つ事も、神の支えた生命であるから許さない。被告人は生き続けて、その全存在をかけて罪を償ってほしい。」

また判決文には、「君の金子みちよへの愛は真実なものであったと思う。そのことを見つめ続け、彼女と子供の冥福を祈り続けるように。」と記されています。死刑ではなく、無期懲役の判決が下された理由として、リンチ殺人事件に関しては、絶対的な権力と地位を有していた永田洋子元死刑囚(2011年に獄中で死去)と森恒夫元被告(拘置所で自殺) に対して従属した地位にあり、命令を実行せざるを得なかったことが考慮されました。その後、1983年2月控訴審の東京高裁でも同様な判決が下され無期懲役の刑が確定します。

「石丸裁判長が被告吉野に見たもの」

石丸裁判長が吉野の親友大泉康夫さんに宛てた手紙には、「私は吉野君に自己を見ています」と書いています。吉野の人生は、石丸裁判長にとって自分の人生のように思えたのです。石丸は、1936年「二・二六事件」に共感して16歳で陸軍士官学校に入学し、職業軍人へ道を歩き始めます。彼は、以下のように当時の心境を日記に書き記しています。

「私が軍人になろうとした真の目的は、端的に忠道の完成にある。しかして、忠道を貫徹しようとするなら、大元帥陛下(天皇)の威光のために自己を滅却して大義に立ち、喜んで死地に邁進する軍人こそ、日本臣民の最上の名誉ではないだろうか。」

石丸は、後に太平洋戦争が間違った侵略戦争であることを知り、そのために多くの若い命が奪われたことを思い、悔悟の念を抱きます。彼は、「天皇のウルトラ信者」として、自分で考えることを放棄して、上からの命令に従って、戦いました。そして過去の「皇国兵士」は、「革命戦士」を称する吉野に自分の姿を見たのです。そこにあるのは、自分で考えることや他者への思いやりを忘れ、連合赤軍の指導者の命令にただひたすら盲目的に従っていた吉野と同じ心理構造でした。それ故石丸は、吉野に革命イデオロギーから解放されて、自由に物事を考え、自分がしてきたことの罪の重さを自覚し、「全存在をかけて罪を償う」ように訴えかけたのです。そのことはまた、戦後の石丸が抱いた思いでもありました。

「石丸裁判長の吉野への思い」

石丸裁判長は東京地裁の判事を辞めて、早稲田大学で刑事訴訟法を教えるようになりますが、吉野のことを忘れずに、彼の人生に寄りそっています。クリスチャンであった石丸は、吉野が服役してから10年後の1992年に聖書を差し入れています。その聖書の見開きには、「愛することのない者は、神を知りません。神は愛だからです。」と書かれてあります。石丸裁判長としては、吉野に是非神の愛を知ってもらいたい、そして神によって愛されていることを知ることが、逆説的であるが、真に自分の罪を償う秘訣であると考えたのではないかと思います。聖書の添えられていた手紙には、「必ずやこの社会に復帰できますことを信じて祈っております」と記されてありました。
その後、石丸は、毎年吉野にクリスマス・カードや誕生日カードを送っています。そのクリスマス・カードには、Merry Christmas の下に以下のように記されてありました。

「万人の救いのために神のひとり子でありながら、あえて人となられ、十字架の苦難の道を歩まれるべくお生れになられた主イエス・キリストの御降誕を共に心からお祝い申し上げます。」

また1994年3月27日に送った誕生カードには、「神によってこの世に生命を与えられた尊いお誕生日を心からお祝い申し上げます。上からの御恩寵御慈愛が日に日に豊かにふりそそがれがれますように主にお祈りいたしております。」と記されていました。
石丸は、2007年4月1日、82歳で死去し、明治・大正の卓越したキリスト教指導者である植村正久(1858〜1925)が創設した東京の富士見町教会で葬儀が営まれました。その後、石丸さんの奥さんから石丸が愛用した黒い革バンドの腕時計が吉野に送られています。吉野は、石丸元裁判長の訃報を聞き、衝撃を受け、以下のように述べています。

「全身をたたきつぶされるような衝撃をうけました。私にとっては命の恩人とも言言うべき先生ですし、存命中に、現在の立場と思いに立った事件への省察書をお送りせねばと思っていたので、その点、申し訳ない思いが一杯です。」

省察書とは、「全存在をかけた償い」の書とでもいうべき彼の手記でした。

「真実の愛について」

吉野は、獄中で、「〈随想〉故石丸俊彦先生への報恩について」と題した400字詰め原稿用紙86枚の手記を書いています。これは、吉野の身元引き受け人で弁護士の古畑恒雄さんに託されました。そこには、「人を変え得るものは、力ではなく、本人への愛情を込めた説諭による他ない、と思えるのです。そうです。石丸先生が、自ら身をもって実践されたように。」と記されています。
石丸が吉野に語りかけた真実の愛を、獄中で吉野はその大切さをかみしめるようになります。吉野は、人を真に変えることができるのは、真実の愛に他ならないことを知ります。吉野は革命戦士時代、人間の愛や家族の愛を革命に対立するものとして否定していました。そのことについて彼は、「自分が『愛すること』について、否定的な捉え方をしていたことに気付きます。愛情そのものを、利己的な感情のごとくみなして、家族や友人の関係もすべて、昇華ー淘汰さるべき個人的関係であるかのようにとらわれていたのです。」と述べています。そしてかっての自分は、「自分を疎かにし、他人や組織に従属し、自分を失っていた状態で」、「人を対等な人格として尊重できず、相手の立場や心情を思いやることはできなかった」と反省しています。

「キリストの愛」

すでに、述べたように、石丸は吉野にクリスマス・カードでキリストの十字架の愛を語っていました。真実の愛は、キリストの十字架から生まれ、キリストの愛を知ることによって、人を本当に愛することができるというメッセージです。
吉野は、裁判の当初、自分の殺害行為を、殺害を命令した森や永田のせいにし、深刻な罪意識を持つことはありませんでした。しかし、石丸裁判長との出会いを通して、自分の全存在をかけて罪をつぐな姿勢に転換します。そして真実の愛の必要性に目覚めるようになります。石丸の願いは、吉野が「全存在をかけて罪を償う」と同時に、キリストの愛を知り、新たな希望の人生を歩んで欲しいということにありました。その願いが実現されるように期待したいと思います。

「聖書の言葉」

“私たちが神を愛したのではなく、
神が私たちを愛し、
私たちの罪のために、
なだめのささげものとしての御子を遣わされました。
ここに愛があるのです。” (1ヨハネの手紙4:10)

参考文献
http://www.nhk.jp gendai. blog
大泉康雄『氷の城ー連合赤軍事件・吉野雅邦ノート』(新潮社、1998年)