マルティン・ルター(1483-1546)と聖書

ー我ここに立つ」ー

私が、大学に入学した時に、学部で新入生歓迎式が行われ、学部長が、「我、ここに立つ」という歓迎演説をされました。学部長は、クリスチャンでしたので、ルターの宗教改革の話を熱っぽくされました。そして、大学生活四年間の中で、「我、ここに立つ」と言えるような人生の土台を見出してほしい」と語られたのです。

「流れに逆らって」

日本人の生き方の特徴は、他人や時代の流れに同調していく、「同調主義」にあると言われています。その国のことわざは、その 民族や文化に根ざしており、日本人の心理的態度を言い表しています。代表的な例を挙げれば、「バスに乗り遅れるな」、「寄らば大樹の陰」、「赤信号、みんなで渡れば怖くない」「和をもって貴しとすべき」です。相互の和が最大の価値となるときに、真理の追求が「和を乱す」として攻撃される事になります。ルターが言ったように、権力の威嚇による死の危険性に直面しても「我、ここに立つ」という精神風土は生まれてこないのです。時代の流れ、多数の動向にあわせることに汲々としていて、流れに逆らって(against the tide)歩む勇気が無いのです。土台のない、漂流する人生です。その意味において、私たちはルターから学ぶべきものが多くあるのではないでしょうか。

「ルターの苦悩」

それでは、宗教改革者ルターの精神的軌跡を見てみましょう。
ルターは、1483年にドイツのアイスレーベンに、父ハンス、母マルガレータの子供として生まれます。彼は1501年にエアフルト大学に入学しますが、1905年落雷に会い、そこに神の裁きを見ます。彼は、神の裁きから逃れるためにも、修道士になり、一生懸命禁欲生活をして、神に受け入れられようと努力をします。しかし、努力すればするほど、自分の中にある邪悪さが示され、絶望します。彼はこの時を回想して、以下のように述べています。

「私が、敬虔な修道僧であり、修道院の規則を厳格に守ったことは真実である。修道院の生活によって、天国に入れる僧があるなら、私も天国に行けると思う。私を知っている修道僧の兄弟たちは、誰もこのことを証言してくれるであろう。私の修道院生活がもっと長く続いていたならば、不眠と祈り、読書と労働、その他あらゆる責務にために死んだであろう。」

「塔の体験」

ルターが、良い行いを積み重ねることによって、神に受け入れられるという「行いによる義」ではなく、ただ信仰によって義とされる立場を獲得したのが、「塔の体験」 においてでした。当時、ヴィッテンブルク大学 で聖書講義を受け持っていたルターは、詩篇22篇のことば、「わが神、わが神、何ゆえ私を見捨てられるのですか。私の嘆きの言葉を聞かれないのですか?」をキリスト預言として理解し、なぜ神の子イエス・キリストが神から捨てられなければならないのか、驚愕を禁じ得ませんでした。しかし、ルターは、イエスが人間の罪悪をすべて引き受け、身代わりとして神に裁かれたことを信じるようになり、ルターの神観は180度転換します。それは、人間の罪を裁く神から、人間の罪を赦す愛の神への転換です。また行いによる義から、イエス・キリストを信じる信仰による義への転換です。ルターは、ローマ書3:23〜24の言葉、「すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、値なしに義と認められるからです。」を読んで狂喜しました。長い間、苦しみ続けていた罪の赦しの問題が一挙に解決できたからです。この点、ルターは次のように言っています。

「日夜、私は思索し、遂に私は『神の義』と『信仰による義人は生きる』いう言葉の連関を見つけた。それから私は、『神の義」が、それによって恩恵とあわれみから神が信仰を通してわれらを義としたもう所の正しさであるということを理解した。そこで、私は、自分が生まれ変わって、開いている戸口からパラダイスへ入ったのを感じたのである。聖書全体が新しい意味を持つに至った。以前には、『神の義』が私を憎悪でいっぱいにしていたのに、今ではそれがわたしには、いっそう大きな愛のうちに、いいようもない快いものとなった。このパウロの一句が、天国の扉となったのである。」(ペイントン、『我ここに立つ』)

「95カ条の提題」

ルターは、ただ信仰によって救われるという「信仰義認」の立場を確立いたしましたが、この内面的な新生の体験が、ヨーロッパを変革する宗教改革につながっていきます。
当時マインツの司教アルブレヒトは、ローマの聖ペテロ大聖堂建設の資金獲得のために、ドミニコ会派修道士テッツェルに贖宥券(免罪符)をドイツで販売させていました。教皇の発する贖宥券によって罪が赦されるというカトリック教会の堕落にルターは激怒し、1517年にブィッテンブルク城教会の扉に「95か条の提題」を書きつけます。その第36条には、「真に悔い改めるならば、キリスト者は完全に罪と罰から救われており、それは免罪符なしに彼に与えられる」と記されています。こうしたルターの反抗的な行為は、当然、教皇権の侵害を恐れるカトリック教会の反発を引き起こします。

「我、ここに立つ」

1520年6月、当時の教皇レオ10世(在位1513〜1521)は、ルターに破門威嚇の大教書を送りつけますが、ルターは大胆にも破門威嚇書を火に投じています。1521年1月に教皇レオ10世は、ルターを破門します。またルターは、1521年4月に神聖ローマ帝国カール5世(在位1519〜1556)によってヴォルムスの帝国議会に召喚され、トリールの大司教から彼の主張の撤回を迫られます。まさに、ルターは、一方における宗教権力である教皇権力、他方における世俗的権力である神聖ローマ帝国の皇帝権力の双方によって威嚇され、死の危険性に晒されるのです。ルターの答えはいかなるものであったでしょうか。彼は、以下のように答えました。

「私は、聖書と明白な理性に基づいて説得されない限り、自説を取り消すことはできないし、また取り消そうとも思いません。なぜなら私が良心にそむいて行動することは危険ですし、また正しくないからです。—-ここに私は立つ。(Hier Stehe Ich)私はこの他何もできません。神よ、我を助けたまえ。」

「人生の土台である聖書」

ルターにとって死を覚悟してまで立ち続けた土台は、神のことばである聖書でした。この神のことばの上に立っていたがゆえに、ルターは時代の激流に飲み込まれることなく、堅く立つことができたのです。旧約聖書のイザヤ書には、「草はしおれ、花は散る。しかし神のことばは永遠に立つ」(イザヤ書40:8)と記されてあります。

「ドイツ語聖書の翻訳」

ルターは、自説を取り消さなかったために、カール5世によって帝国追放令に処せられます。 ルターの処刑を恐れたザクセン選帝侯フリードリヒ3世(在位1486-1525)は、ルターをヴァルトブルグ城(Wartburg)に連れてきて、そこに匿います。ルターは、このヴァルトブルク城で9ヶ月を過ごし、ギリシャ語からドイツ語の新約聖書 の翻訳を完成させます。そしてこのドイツ語訳聖書がグーテンベルクの印刷術の発明によって、ドイツ国民に印刷・配布され、「信仰による義」の真理が浸透していくこととなります。
Wartburg のwarten は「待つ」という意味で、 burgは城という意味です。人は新たな事業をする前に「待たなければならない」時期があります。自由に活動できない、身体的に制限された時があります。その時こそ、実は重要です。この監禁された期間において完成したドイツ語訳聖書は、ルターの宗教改革がさらに進展していく原動力となりました。

「ルターを辿るツアー」

私は、1989年8月、まだベルリンの壁が崩壊する前に、旧西独の「ゲーテ・インスティテユート」のツアーに参加し、ルターの足跡をたどり、ルターの生まれたアイスレーベン、修道僧として働いたエアフルトのアウグスティヌス修道院、彼が「信仰による義」を確立したヴィッテンブルク、そして ヴァルトブルク城を訪問しました。それはまた、ルターが、聖書とどのように格闘したかを知る幸いな機会として、心に刻まれています。
是非皆様が「我、ここに立つ」という人生の土台を聖書に 発見されることを願っています。

【参考文献】

ローランド・ペイントン『我ここに立つーマルティン ・ルターの生涯』(聖文社、1954年)
『世界の名著ー18 ルター』(中央公論社、1969年)
徳善義和『マルティン・ルター』(岩波新書、2012)