下稲葉康之(1938-2021)と聖書ーホスピスと復活のいのち

「ホスピスと復活のいのち」

下稲葉康之(やすゆき)氏は、1980年に亀山病院(1986年に亀山栄光病院に改称)でホスピスを始められたクリスチャン医師です。その後、特別医療法人栄光会理事長や栄光病院病院長でホスピス主監を務められ、半生を末期がんで苦しむ人々のケアに捧げられました。

私も二度ほどお目にかかり、またホスピスについての講演を聞き、キリストの復活のいのちを、ホスピスに生かしていきたいという熱情に感銘を受けたものです。一緒に講演を聞いておられたT医師は、クリスチャンではありませんでしたが、後に栄光病院を訪ねられて、熱心 にホスピスの現場を視察されるほど感激しておられました。

下稲葉氏は使命を成し終えて2021年9月2日、82歳で召天されました。心から哀悼の意を表したいと思います。ところで、下稲葉氏のホスピスでの働きを支えていた精神とは一体何だったのでしょうか。まず下稲葉氏のプロフィールを聖書との出会いという視点からご紹介したいと思います。

「プロフィール」

下稲葉康之氏は、1938年に鹿児島県に生まれ、1957年に九州大学医学部に入学されて、翌年ドイツ人宣教師との出会いを通して、キリストの復活の信仰に目覚め、クリスチャンとなります。この時の経験が彼のその後のホスピス医師としての人生に大きな影響を与えました。彼は、この時の経験を、次ののように語っています。

「大学二年も終わろうとするころ、私はまさに人生開眼の時を迎えたのであった。この私を愛してくださっている神がおられる。そして私のどうしようもない罪を赦すためにキリストが身代わりとなって罰を受け、十字架で死んで下さった。そしてこのお方は復活して今も生きておられる。そしてこれからも私の人生を導いてくださる! 素朴な小さな信仰であったが、このキリストとの貴重な出会いが与えられたことには、どんなに感謝しても過ぎることではない。私の確かな基盤となった。」( 『ホスピスーわが人生道場』)

特に下稲葉氏にとって、イエス・キリストの復活は信仰の原動力でした。彼は、弟子たちがイエス・キリストが十字架にかけられるときには恐れて逃げてしまったのに、キリストの復活に出会ってから変えられ、大胆に命賭けて福音を宣べ伝えていったその変化に注目します。そのことを契機として、彼は信仰に導かれます。イエス・キリストを信じることによって与えられる復活のいのち、永遠のいのちは、後にホスピス医になる下稲葉氏の働きの秘訣でした。なぜならキリストを信じることによって与えられる復活の命こそ、死の恐れを克服し、天国への希望を与えるものだからです。

大学卒業後当時の西独のボン大学に留学され、帰国された後に単立のキリスト福音教会を創設し、伝道者として奉仕されます。そして1980年から亀山病院でホスピス担当医として働き始め、2021 年に逝去されるまで、約40年間一貫してホスピスを通して、キリストの復活の命を末期ガンで苦しみ、死の瀬戸際に立たされた人々に伝えてこられました。その働きは闘いの連続であり、まさに「人生道場」でした。それは、キリスト信仰がどこまで生きて働くものかが問われる瞬間の連続であったからです。その緊張をはらんだ戦いの中で、緩和ケアーによって死を看取る以上のすばらしい出来事が次々に生み出されていきます。その記録を下稲葉氏の著書を参考にして、追ってみましょう。

『いのちの質を求めて』

下稲葉氏の最初の書物は、『いのちの質を求めてーホスピス病棟日誌』(いのちのことば社、1998年)です。本書の中には、福岡亀山栄光病院の下稲葉医師や病院スタッフの全人格的なケアを通して、幾多の末期ガン患者が身体的・精神的な苦しみの中で死を受容し、イエス・キリストを信じて、天国に凱旋するプロセスが、克明に描かれています。著者は、「死は決して人生の惨めな敗北ではなく、人生の完結であり、天国への晴れがましい旅立ちである。」と述べていますが、本書はそのなまなましい感動に満ちた記録です。

『ホスピスの意味』

「ホスピス」(Hospice)とはラテン語で、Hospitiumに由来し、「暖かいもてなし」を意味し、そこからHospital,Hotel という言葉が派生しました。死という最終的な極限状況にある人々に対する「暖かいもてなし」とは一体何でしょうか。著者は、「ホスピス」を末期ガン患者の「全人的痛み」(total pain) に対する「全人的ケア」としてとらえ、それぞれの痛みに対応するケアを四つに分類しています。

「四種類のケア」

第一は、身体的な痛みを緩和するための医療的ケアであり、いわばpain controlです。痛みが緩和されなければ、人は平安な生涯を全うすることはできません。このケアが、次の三つのケアの前提となります。

第二は、不安、孤独、恐れ、苛立ちといった精神的苦痛に対する精神的ケアです。そこでは、患者の精神的状態を受け入れ、共感した上で、親密なコミュニケーションによるケアが行われます。医師や看護婦が自分の精神的な苦しみや不安を理解してくれていることが、患者に大きな励ましと信頼を生み出すのです。

第三は、家庭内の壊れた人間関係を引きずっている苦痛に対しては、患者のみならず、家族とのコミュニケーションを密にし、患者と家族の心の絆の修復のためのケアが必要となります。そこでは、家族の協力が不可欠です。

第四は、罪の意識や死の恐怖といった霊的苦痛に対しては、イエス・キリストの十字架と復活に対する信仰によって、罪の赦しと永遠のいのちへの確信に基づく霊的ケアが必要とされます。それは、牧会的な働きです。下稲葉氏は、医者であると同時に、教会で長い間牧会者として働いてこられました。

「天国への凱旋」

本書の醍醐味は、最初の三つのケアに加えて献身的な霊的ケアが行われることによって、亀山栄光病院の多くの末期ガン患者が、死の恐れを克服し、復活のいのちを与えられ、天国に凱旋されたことです。胃癌で肺転移の41歳の婦人は、闘病生活中で信仰を見出し、See you again !( 再開を期して)と言って天に召されました。また喉頭癌からの転移によって末期癌の状態にあった75歳の男性患者は、「終わりの日はわが人生の決勝点 癌を背負って十字架に近づかん」という短歌を遺して、天国に赴かれました。

「K さんとの対話」

ここで、ひとりの女性患者と下稲葉氏との対話を紹介しましょう。26歳の女性のKさんは、まだ1歳になる女の子がいて、子宮頸がんの末期的状態でしたが、下稲葉氏との間で真剣な心と心の触れ合いが生まれ、イエス・キリストに心を開くようになります。二人の感動的な対話を、『ホスピスーわが人生道場』から紹介します。

K:「先生、あとどれくらい生きられる? 前の病院ではあと六ヶ月と言われました。これから先のことがどうなるか不安です。」

下稲葉:「今日の時点で正確にはわからないけれど残念ながら少しずつ進行していくことは避けられない。ただ、どんなことがあっても、まずは苦痛がないように最後まで最善を尽くすので、それは心配しなくてもいい。安心してもいいよ。Kさん。ところで僕はクリスチャン。学生の時にクリスチャンになって、今までイエス様におすがりしながら、医師として患者さんのお世話をしてきた。本当にクリスチャンでよかったという経験をしてきた。わが人生に悔いなしだ。イエス様はこの瞬間も生きていて助けてくださる。K さんもお頼りしたら?短い人生を終えることになるけど、しかし、お頼りする者にとって、死は決して人生の終着駅ではない。永遠のいのち、天国だよ。」

【下稲葉氏、賛美歌「忘れないで」の独唱】
♪忘れないで
いつもイエスさまは
君のことを見つめている
だからいつも 絶やさないで
胸の中のほほえみを♪

K:「先生ありがとう。」

ーーーー しばらく、日数が経過してーーーーー

K:「先生、あとどれくらい?」

下稲葉:「そうね、あと一週間。二週間は無理と思うよ。」

K:「先生、大丈夫です。死ぬのは怖くありません。この病院に来て怖くなくなったのです。イエス様が天国に迎えて下さることがわかって、心が楽になったのです。先生、そうでしょう?」

下稲葉: 「そうだよ。イエスさまは両手をあげてあなたを迎えてくださる。最後の時が来たら、僕が賛美歌を歌ってあげるよ。」

K:「先生、お願いします。」

「キリストの復活のいのち」

死期を宣告され、死がまじかに迫っていく中で、人は如何にして希望を持つことができるでしょうか。下稲葉氏は、ホスピスの現場では、「死に飲み込まれるか、死が飲み込まれて最終的に命が打ち勝つ」かの舞台であり、「死の現場でこそ、まさに自分の死が迫ってくる状況の中にある患者さんにとって、「死んで復活し、今も生きておられるキリスト」こそ救いであると述べています。肉体的に死んでも、復活のいのち、永遠のいのちを与えられるキリスト信仰は、まさにいのちの宗教といっても過言ではありません。下稲葉氏の書物では、極限状況の中で、死と向き合いながらも、死を超えた復活のいのちを与えられて、この世のいのちを終え、天国に凱旋される人々の感動的な姿が記録されていますので、是非お読みになることをお勧めします。

最後に『幸福な死を迎えたいー栄光病院ホスピスの現場から』の下稲葉氏のあとがきを紹介します。
「この27日間、ホスピス病棟での関わりは感動の連続でした。神がその関わりに働かれると不思議が起こったのです。昨日の病棟総回診の時、肺癌末期のご婦人がニコニコしながら『両手を広げてイエスさまのもとに飛び立っていきます。先生、よろしくね』と、手を差し伸べてきました。温かい握手でした。

死に向き合っている患者さんにとって必要にして十分な助けは、『いのち』です。それも決して『いのち』についての教理や教義ではなく、まさに『いのち』そのものです。死を超えるいのちです。そして、神がキリストを通して『死んでも生きる』いのちを差し出してくださっっていることは、実にキリスト福音独特の力です。」

「イエス・キリストのことば」

イエス・キリストは、マルタという女性に対して、「わたしはよみがえりであり、いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。」(ヨハネ11:25)と語られました。またサマリヤの女性に対しては、「わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」(ヨハネの福音書4:12)と約束されました。この約束は、私たち一人一人にも与えられています。

参考文献
下稲葉康之『いのちの質を求めてーホスピス病棟日誌』( いのちのことば社、1998年)
同 『幸福な死を迎えたいー栄光病院ホスピスの現場から」(いのちのことば社、2009年)
同 『ホスピスーわが人生道場』(いのちのことば社、2017年)