アンドレ・ジード(1869-1951)と聖書ー狭い門

「狭い門」

狭い門という言葉は、日常言語としても頻繁に用いられれています。今年の大学入試は「狭い門」であるという場合がそうです。この「狭い門」という言葉は、実は聖書に由来します。

イエスは次のように言われました。

  • 「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広く、そこから入ってくる者が多いのです。いのちに至る門はなんと狭く、その道もなんと細いでしょう。そしてそれを見出す者はわずかです。」(マタイの福音書7:13〜14)

この聖句では、二つの門、二つの道があります。一つは、狭い門、狭い道で、それは、永遠のいのちに通じています。もう一つは、広い門、広い道で、それは、永遠の滅びに通じています。誰しも、永遠のいのちを得るために、狭い門から入ろうとするでしょう。しかし、問題は狭い門とは一体何かです。

「狭い門の間違った解釈」

大学入試が「狭い門」であれば、合格するためには、人よりも一生懸命努力し、睡眠を削って勉強します。一生懸命努力する人は「狭い門」をくぐることができますが、努力しない人は狭い門から入れず、合格できません。しかし、問題なのは、このことを、聖書の救いを得る条件に適用することです。そこから、人間の努力や自己犠牲が、また自分を倫理的・道徳的に高めることが、救いや永遠のいのちを得るために、必要であるという誤った解釈が生まれてくることになります。

「ジードの『狭き門』」

まさにそうした解釈を典型的に示しているのがジードの『狭き門』(1909年)です。英文学者の清水氾は、ジードの『狭き門』の非キリスト教的解釈が多くの若い人々をキリスト信仰から去らせたと断言しています。それでは内容を見てみましょう。
主人公は、ジェロームと二歳年上の従姉妹のアリサです。ジェロームは、狭い門に関する牧師の説教を聞き、狭い門を、努力を傾け、並々ならぬ苦痛を味わいつつ「身を縮め、自分の中に残っているエゴイズムをすっかり追い払う」 門として理解します。
ジェロームとアリサは激しく愛し合うようになります。最初は、アリサとジェロームの愛は、二人が神に近づくことと矛盾するものではありませんでした。しかし、次第にアリサは、自分と彼の親密な関係が、彼が神に向かう妨げとなっていることに気づき、煩悶します。アリサの嘆きのことばを引用します。

  • アリサ: 「なんと悲しいことだろう!現在、私はわかりすぎるほどよくわかっているのだ。神と彼との間には、私という障害物しかないということが。最初のうちにこそ、私に対する愛情が彼を神の方に導いていたとしても、今となっては、その愛情が彼の妨げとなっている。彼は、私のことに手間取り、わたしの方をより多く愛している。そうして、私は偶像となり、彼がもっと深く徳の中に踏み込んで行くのを引き止めているのだ。」


また、アリサ自身にとっても、ジェロームの存在が、神との交わりの障害になっていることに苦しみます。二人の会話を紹介しましょう。

  • アリサ: 「あなたのおそばにいると、こんなに幸福になれるものかしらとと思うほど、私は幸福なの……でもいい事。私達は幸福のために生まれてきたわけではじゃなくてよ。」

    ジェローム: 「じゃあ、魂が幸福を捨ててまで選べる ものとは、いったいなんだい?」

    アリサ: 「聖性よ」(Santoute)


「聖性」とは、神の前に聖くされ、神に絶え間なく近づくことを意味します。アリサにとって、ジェロームと一緒にいることの幸福は、神の前に聖くなることの障害でした。なぜなら、心がジェロームと神との間に分かれるからです。アリサは、神に対して「なぜあなたは、あなた自身と私との間の至る所に、彼の面影を置いて置かれるのですか。」と問い、「あなたが私たちに教えて下さる 道は、主よ,『狭い道』です。二人ならんでは通れない道なのです。」と、決定的な言葉を発しています。
その後、アリサは、心の葛藤を経験しつつも、ジェロームと別れる決心をし、財産を貧しい人々に分け与え、家を出ます。そして、心の病いが嵩じて、療養院で、死んでしまうのです。自らの徳を達成し、犠牲的な行為によって、神に近付こうとする行為の辿る結末でした。アリサにとって、狭い道を通り、自らの救いを達成するためには、測り知れない犠牲と禁欲が求められ、その結末は死であったのです。

「行為義認と信仰義認」

ジードはアリサに象徴される自己犠牲の禁欲主義に批判的であったと言われています。しかしジイドの「狭い門」の解釈は誤解に基づいています。なぜなら、聖書は救いに至る道、永遠の命に至る道は、自分の行いや修行による行いの道ではなく、ただイエス・キリストを自分の救い主として信じる信仰によると示しているからです。行いによって罪赦され、正しいとされる「行為義認」道ではなく、信仰によって義とされる「信仰義認」の道です。
キリストは、十字架で私たちの罪を負って死んで、三日後に墓を打ち破って、復活されたことにより、罪の赦しが成し遂げられました。

  • 「神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、価なしに義と認められるのです。」(ローマ書3:24)


「狭き門の本当の意味」

それでは、なぜイエスを信じて救われる道が、狭い門、狭い道になるのでしょうか。なぜ門であるイエス・キリストを通って永遠のいのちを見出す人が少ないのでしょうか。何もしなくても、ただ信じるだけで救われるのであれば、広い門、広い道になるのではないでしょうか。
聖書も、
「神はすべての人が救われて、真理を知るようになることをのぞんでおられる。」(1テモテ2:4)

と記しています。
この疑問に対する一つの答えは、人々は、ただイエス・キリストに対する信仰によって、「価なしに」、つまりただで、救われることに我慢がならないのです。自分の行為無くして、「恵みによって」救われることに抵抗感を感じるのです。また「ただほど怖いものはない」と思います。「恵み」の意味がわからないのです。

二つ目の 答えは、自分が神の前に罪人であることを認め、悔い改めて、イエスを信じることに、自分のプライドが傷つけられると感じるからです。人間のプライドは頑強に神の前にへりくだることに抵抗します。プライドが高じると、自分を神の座に置こうとします。
夏目漱石は、「どうして神を信じないのか。自分を信じるので、神を信じないのである。全宇宙のうちに自己より尊きものはない。自分を尊いと思わないものは奴隷である。自分を捨てて、神に走る者は神の奴隷である。神の奴隷になるよりは死んだ方がましである。」と述べています。

「神の前に幼子のようになること」

私は、信仰を持って後にある友人を福音集会に案内しました。彼は、人格が円満で、周囲の人から尊敬されていました。聖書のメッセージが終わり、宣教師の方が、彼に神様に祈りましょうと促しましたが、彼は「神に祈ることは屈辱である」と、私の心が凍りつくような言葉を発したのです。傍目で優しく思いやりのあるように見える人も、神の前に強固なプライドを抱いている人が少なくありません。プライドを捨てなければ、キリストのもとに行くことはできませんし、神の前に悔い改めの祈りをすることはできません。狭い門を通ることは、犠牲的な行為を積み重ねて、自我を捨てようとすることではなく、逆に、神の前にへりくだり、神の恵みを心から感謝することによって可能となります。
イエスは言われました。

  • 「まことに、あなたがたに言います。子供のように、神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに入ることはできません。」(マルコ10:15)

    「神は高ぶる者には敵対し、へりくだる者に恵みを与えられる。」(1ペテロの手紙5:5)


参考文献

アンドレ・ジード 『狭き門』(『世界の文学セレクション36』、中央公論社、1994年)
清水氾 『狭き門』(KGK新書、1965 年)