「なぜ細川ガラシャはクリスチャンになったのか」


1.麒麟が来る

現在、NHKで大河ドラマ「麒麟が来る」が放映されていて、筆者も楽しみに見ています。この大河ドラマで、明智光秀(1528-1582)と熙子(ひろこ)の娘の細川玉(洗礼名ガラシャ、1653-1600)がどのように描かれるのかは未知数ですが、期待したいと思います。明智光秀の居城は現在大津市の坂本城で、菩提寺は坂本にある西教寺です。細川ガラシャに関しては、彼女の最後の死の瞬間に注目が注がれますが、ここでは、なぜ玉はクリスチャンになったのか、その精神的軌跡に焦点を当て、特に三浦綾子著『細川ガラシャ夫人』に依拠して、考えてみたいと思います。したがって、三浦綾子から見たガラシャの生き様となります。

ベストセラーとなったアウシュヴィッツ収容所での体験を描いた『夜と霧』の著者であるV・フランクルというオーストリアの精神科医は、苦しみは、人間に生きる意味を探し求め、人間を成熟させる力と述べていますが、ガラシャが信仰について真剣に考える機会となったのも彼女の人生にとって最大の苦難の時でした。ガラシャは、16歳の時の1578年、織田信長の命により、細川藤孝の息子細川忠興(ただおき)と結婚し、山城の勝龍寺城、そして丹後の宮津城で幸福な結婚生活を営んでいました。しかし突如として、苦難がガラシャを襲います。1582年の本能寺の変以降、逆賊明智光秀の娘ということで、細川忠興から一時的に離縁され、丹波奥地の味土野(みどの)に幽閉されるのです。明智一族は、坂本城で自害し、両親も兄弟も死に、残っているのはガラシャ一人だけでした。細川藤孝と忠興が細川家を守ると同時に、ガラシャの命を救うために考えた窮余の作でした。味土野に幽閉されている時は、宮津城にいた長女長、長男忠孝の二人の子供たちとも引き離されて悲哀と孤独の生活を余儀なくされます。

しかし幸いなことに、細川ガラシャの侍女にキリシタンの清原いと(後にマリアという洗礼名を与えられる)がいたのです。清原マリアは、高名な儒学者で後に高山右近の父と同時にキリシタンとなった清原技賢(えだかた)の娘で、生涯独身を貫いて、神に仕えた女性です。彼女が、細川ガラシャの親しい話し相手になったのです。三浦綾子の歴史小説『細川ガラシャ婦人』から二人の会話の三つのシーンを紹介しておきます。この会話のシーンはガラシャの信仰を考える上で、極めて重要な部分です。記述の際、名前は洗礼名を用います。文中、佳代と出てくるのは、いとのことです。

2.清原マリアとの対話

Ⅰ第一の会話―味土野の山中にて

マリア 「お方さま、佳代には、何の力もござりませぬ。ただ祈るより—-」
ガラシャ 「何を祈ってくださるのです。一日も早く帰ることができるようにと、祈ってくださるのですか。」
マリア 「――いえ、佳代は、その祈りよりも、もっと大切な祈りをささげています。」
ガラシャ「帰城するよりも、大切な祈り?  それはどのような祈りですか。」
マリア 「はいそれは、それは、もろもろの御苦難が、お方さまにとって、大きな御恩寵とお思い遊ばすことができますように、という祈りでございます。」
ガラシャ「苦難を大きな恩寵と思うことができるように。それよりも、帰城できるようにとの祈りのほうが、ありがたいと思います。」
マリア 「はい、お方さま、その祈りは、むろん及ばずながら、朝夕はもとより、機を織りながら、歩きながら、毎日欠かさずにしています。でも、お方さま、人の一生は、苦難の連続かもしれませぬ。無事御帰城なされても、また、別のもっと大きな御苦難が待っているかもしれませぬ。」「よくパーデレ[神父]がおっしゃいました。苦難の解決は、苦難から逃れることではなく、苦難をゼウス[神様]の御恩寵として喜べるようになることだと。」ガラシャ 「なるほど、――つまりこういうことでしょう。苦難が苦難である人には、いつまでたっても、苦難の解決はない。けれども苦難がご恩寵と喜べる人には、もういかなる苦難も、苦難ではないと。」
マリア「はい、喜びの中に苦難は住めませぬ。」
ガラシャ「でも苦難をご恩寵と喜べるなどということは、人間にはありますまい。」
マリア 「でも主[神様]のお助けがあれば」
ガラシャ 「祈ってくださる真心は、うれしく思います。けれどもキリシタンのことは、わたくしにはわかりません。」(『細川ガラシャ夫人』、248頁)

この会話に示されているように、この段階では、ガラシャにとって苦難が恩寵であることは、理解できませんでした。しかし、マリアの言葉はガラシャの心にしかと刻み込まれたのです。

Ⅱ 第二の会話―味土野で「細川邸に帰れると決まって」

ガラシャは、秀吉の許しを受けて、約2年間の味土野での生活を終えて、新しく大阪城の近くに造られた細川家に帰ることが決まります。その時の二人の会話です。
ガラシャ「今になって、いつぞやのそなたが申された言葉の深さがようやくわかりました。―――佳代どの、あの時あなたは、たしかもろもろの苦難を、恩寵と思えるように祈ると申されました。そしてそなたは、人の一生は苦難の連続かもしれぬ、無事帰っても、もっと大きな苦難があるかもしれぬと申されました。――その時は不吉なことと、いささか不快にも思いました。

マリア「申し訳ありません。」
ガラシャ「いいえ、今になって、その言葉が私を思っての言葉であったとよくわかるのです。人の世に、苦難はつきもの、ただ苦難を逃れようとして生きていては、今幸いであることすら恐ろしい。幸いの時すら、この幸いがいつ崩れるかと、恐れて生きていかなければなりませぬ。」
マリア 「はい人間はそのように弱いものであります。」
ガラシャ「佳代どの、人間の真の幸福とは、こんな崩れやすい、はかないものではありますまい。―――私は帰るのが恐ろしい。今はなんとも心が揺らぐのです。今、あの子たちに会えるのと思って喜んでいても、たちまち、引き離されはしまいかと思い、そして限りなく心は沈むのです。――この恐れを取り除くものが本当にあるなら―
マリア「ございますとも。」
ガラシャ「やはり、天主(ゼウスの神様)ですか。」
マリア 「はい、お方さま」
ガラシャ 「真に恐れを取り除くことができるのなら、佳代どの、私はもっと、早くに天主の神を知るべきでありました。――この味土野でのそなたの暮らしを見ていて、信ずることの尊さ、強さを感じました。でも私にその教えが信じられるかどうか。」
マリア 「恩寵によって、きっと」(同、272-273頁)

このように、ガラシャは、神様に対する信仰に引き付けられ、神を信じたいという思いがますます強くなっていきます。しかし、そこには一つのハードルがありました。明智家の三女として、また細川の正室として真剣に生きてきたガラシャにとって、自分が罪人であり、イエス・キリストが身代わりとして十字架で死んでくださったことが理解できなかったのです。その転機は、大阪の細川邸におけるマリアとの会話にありました。

Ⅲ  第三の会話. 人間が罪人であることについて」

ガラシャ 「今こそ、本当にゼウスの神のお話しを聞きたいものです。ゼウスの神は、
いったい私が何をしたら、救ってくださるのです。」
マリア「お方様、天主さまは、私どもがなにかをすれば救おうとは仰せられません。ただ、キリスト様を救い主として信じれば、それで赦してくださるのです。」
ガラシャ「ただ信ずればよいのですか」
マリア「はい、わたくしには、どのように申し上げてよろしいかわかりませんが、神の子キリストさまは、十字架にかかられました。」
ガラシャ「なぜ、神の子がそんなにむごい死に方をされるのです。」
マリア「はい。本当は、あの十字架にかからねばならないのは、私どもすべての人間なのです。」
ガラシャ 「すべての人間?では私も。」
マリア 「はい、おそれながら」
ガラシャ「わかりませぬ。十字架は極悪人がかかるものではありませぬか。何の罪もない私どもが、十字架にかからねばならないとは、ずいぶんわけのわからないことを、キリシタンは申しますこと。」
マリア「でもお方さま、いつかも申し上げたかもしれませぬが、人間は一人として義しい人がおりませぬ。人間はみな罪人だと。」
ガラシャ「もうよろしい。お佳代どの。私は生まれて、人に指さされるような悪いことなど、した覚えはありませぬ。すべての人が罪人などと申すのは、どうにも符におちませぬ。」(同、286頁)

この会話によるとガラシャは、自分が乱世の被害者であると思っても、罪人であるとは思えませんでした。彼女は、誇り高い武士の娘でした。また人より抜きんじた美貌と知性の持ち主でした。彼女は「罪人」という言葉につまずいたのです。「罪人」という言葉はガラシャにとっては禁句でした。しかし、ガラシャはある時、自分の心の醜さに煩悶するようになります。

父光秀は一人も側室をもたなかったのですが、夫細川忠興が自分に仕えていた侍女おりょうを側室にもったことを知り、激怒するようになります。またおりょうの子供が元気に生まれたのに、自分の次男、興秋がひ弱に生まれたことで、憎しみを覚えます。時折、心の底で、古保[おりょうの子供]の死を願うのです。そのような自分を、恐ろしい!醜い!とガラシャは嫌悪するようになります。自分の中にこのような醜さのあることに、玉は耐えられなかったのです。そこから、ガラシャは、マリアから聞いたキリストの十字架による罪の赦しと救い受け入れるようになります。

3.大阪の細川邸で

ガラシャは、1584年に幽閉を解かれ、大阪玉造の細川邸で生活するようになりました。1587年に、夫忠興が秀吉の命により、九州の島津氏討伐のために留守にしている時に、彼女は思い切って2月21日に大阪の天満の教会を訪れ、日本人のコスメ修道士に対して様々な質問を投げかけたのです。その内の最も重要な質問は、魂の不滅の問題でした。それまでガラシャは、禅宗の教えや修行を受けていました。禅宗では来世は存在せず、人間の肉体が滅べば魂も外的感覚や内的能力が欠如した状態に陥ると教えていたのです。魂の不滅と永遠のいのち問題は、ガラシャにとって解決すべき根本的な問題でした。ガラシャは、コスメ修道士との会話で、キリストの十字架の信仰によって罪赦された者が行くことができる「天国」(パライソ)の存在を確信し、洗礼を申し出るのです。

「なにとぞ、この場で、私に洗礼をお授けくださりませ。--修道士さま、教会にまいりましたのは、今日が初めてでも、わたしは、「コンテムツス・ムンジ」(『キリストに倣いて』)をそらんじています。キリストさまが、この罪深き者のために十字架にかけられたことを存じております。この教えには、まことにいのちがあるのを感じます。

人間を生かす、本当の命が感じられます。」(同、310頁)ガラシャは、自分の罪を心から悔い改め、十字架で身代わりに罪を負って死なれ、三日後に復活されたイエス・キリストを信じ、イエスのために生きる人生を選びとりました。細川邸で監視状態にあったガラシャは、続けて教会に行くことが出来なかったので、特別にマリアから洗礼をうけます。洗礼名がスペイン語で神の恩寵を意味する“Gracia ”でした。

歴史小説家永井路子は『人間ガラシャの生涯』の中で、「唯一の神への絶対帰依、罪人としての自覚、キリストの血によるあがないーお玉はその一つ一つの教えを魂で受けとめた」と書き記していますが、的確な指摘です。

ガラシャは、マリアや神父から信仰のことについて教えを受けると同時に、信仰の書で当時キリスタンに良く読まれていた「コンテムツス・ムンジ」を全部暗記できるほど学び、聖書の教理をまとめた『ドチリナ・キリシタン』(doctrina christan、キリスト教教理25カ条)を勉強するようになります。また当時日本語に訳された聖書は存在しなかったので、ラテン語やポルトガル語を学び、ラテン語訳聖書やポルトガル語訳聖書にも挑戦したといわれています。

信仰をもって、ガラシャはみちがえるように変わりました。その変化についてルイス・フロイス(1532-1597)は、『日史史3』の中で次のように言っています。
「キリシタンになることを決めて後の彼女の変わり方はきわめて顕著で、当初はたびたびのうつ病に悩まされ、時には一日中室内に閉じこもって外出せず、自分の子供の顔さえ見ようとしないことがあったが、今では顔に喜びをたたえ、家人に対しても快活さを示した。怒りやすかったのが忍耐強く、かつ人格者となり、気ぐらいが高かったのが謙遜で温順となって、彼女の側近者たちも、このような異常な変貌に接して驚くほどであった。」(『日本史3』238-239頁)

大阪の細川邸では、彼女の感化によって16名のガラシャの待女や家臣がキリシタンになりました。九州の戦から帰ってきた忠興は、ガラシャが洗礼を受けてキリシタンになったことに激怒し、ガラシャに信仰を捨てるように迫り、殺害しようとしますが、それができないことがわかると同じくキリシタンとなっていた侍女の耳や鼻を削いだりして、ガラシャを苦しめます。しかしガラシャの決意は変わりませんでした。忠興が執拗にガラシャに棄教を迫ったのには、1587年6月19日に秀吉が、九州を制圧した後に箱崎(現、福岡市)で伴天連(聖職者)追放令を出していた背景がありました。この追放令は、一般信者の信仰を禁じる禁教令ではありませんが、それでも大名細川家からキリシタンが出れば、秀吉によって御家とりつぶしも考えられる深刻な事態でした。実際に細川忠興と親しい武将で、細川邸に何度もきて信仰について語っていた高山右近は、豊臣秀吉から棄教をするか、信仰を守り通して、すべてのものを失うかの二者択一を迫られます。秀吉の脅迫にたいして、高山右近は秀吉の使者を通して、「私は、全世界に代えてもキリシタンの信仰と私の魂を捨てることはいたしません。したがって領地ならびに明石の所領六万石を即刻殿下に返上いたします。」と彼の決意を伝えています。ガラシャも右近と同様に、キリストに対する信仰のためには、喜んですべてのことを捨てる決意でした。フロイスは、ガラシャの語った言葉を次のように書き留めています。

「もし暴君が大阪に帰り、キリシタンを迫害するとか、信仰のために彼らを殺そうとするようなことがあれば、それは私にとってまたとない機会が与えられることになりましょう。すなわち私は、他のキリスタンの婦人とともに、真っ先にその場に赴いて殉教するからです、」(『日本史3』237-8頁)

またガラシャは、大阪の教会で出会ったセスペデス神父(1551-1609)に、次のような手紙を書き送っています。「神父様御存知のように、私がキリシタンとなりましたのは、人に説得されたからではなく、唯一全能の天主の恩寵により、私自身がそれを見出したからです。たとい天が地に落ち、木や草が枯れはてても、私の天主に対する信仰は、決して変わることはありません。マリアと私とは、いかなる迫害が越中殿(忠興)や関白殿(秀吉)からきたとしても、すでに覚悟を決め、その機に及んで、私たちは天主の愛のために苦難を受けることができることを喜んでいます。」

忠興は、細川家を守ることと、ガラシャに対する愛の間で葛藤しますが、大阪の細川邸に自ら陣頭指揮をとり、立派な聖堂を建てて、そこで礼拝できるように配慮しました。

4.ガラシヤの最後

1600年6月、夫忠興が徳川家康の配下として上杉景勝討伐に出かけている時にガラシャ夫人は大阪の玉造の細川邸にいました。石田光成から大阪城に人質になるよう再三再四迫られますが、忠興から「必ず石田の人質になるな」と命じられていたので、人質になることを拒絶し、老臣小笠原小斎に胸を突かせて最期を遂げました。1600年7月17日のことです。辞世の句は、“散りぬべき、時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ“でした。ガラシャは、今こそ自分が死ぬ時が来たと感じ、神のもとに召されていったのです。夫忠興は9月の関ヶ原の戦いから帰って来た時に、号泣し、ガラシャの死を悼みました。彼はガラシャの信仰の師であり、相談相手であったオルガンティノ神父(1530-1609)に依頼し、大阪の教会でガラシャの葬儀を行っています。この時、高山右近、黒田官兵衛などのキリスタン大名を初め千人を超える人々が葬儀に参列しました。

また忠興は、豊前・豊後の40万石の領主になったあとも、毎年ガラシャ婦人の命日にセスペデス神父を招いて、追悼の記念式を行いました。しかしそれも、1611年に徳川家康のキリシタン禁教令が出るまでの事でした。忠興は、ガラシャの信仰を尊敬し、ガラシャへの愛を心に抱き続けていましたが、それ以上にお家を守るために、天主(神様)よりも、豊臣秀吉や徳川家康の権力に対する忠誠を優先し、キリシタン迫害に転じるのです。そこに忠興の深い葛藤と人間的弱さを見ることできます。高山右近を親友に持ち、ガラシャを妻に持つことによってキリスト信仰の神髄に触れていた忠興でしたが、神様の前にへりくだることはありませんでした。たとえ、夫婦といえども、神様の前には一人で立たなければならず、その責任を自ら負わなければならないのです。

ガラシャが幽閉された味土野は、彼女にとって苦難の象徴でありました。その苦難は神の恩寵(ガラシャ)によって、天国に至る門となったことは、21世紀を生きる私たちにとっても大きな励ましです。フランクルは、たとえ苦難が襲っても「それでも人生にイエスと言う」(Trotzdem Ja zum Leben sagen)という有名な言葉を残していますが、苦難の中で、人生にノーというのではなく、それでもイエスと言い得るのは、人間の頑張りではなく、ただ神の恩寵と支えの故ではないでしょうか。

大津集会では、皆さんの来訪をお待ちしております。神の恩寵によって、聖書の真理に触れる機会となれば幸いです。

参考文献
ヘルマン・ホイヴエルス『細川ガラシャ婦人』(春秋社、1966年)
三浦綾子『細川ガラシャ夫人』(主婦の友社、1975年)
ルイス・フロイス『日本史3』(中公文庫、2011年)
安延苑『細川ガラシャーキリシタン史料から見た生涯』(中公新書、2014年)
守部喜雅『明智光秀と細川ガラシャ』(いのちのことば社、2020年)